存分に生きる。
100mを9秒で走れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、走らずにはいられない
高く 遠くへ跳べると感じたら、そんな想像が湧いたなら、跳ばずにはいられない
4回転半回れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、回らずにはいられない
球を早く投げられる 強く打てると感じたら、そんな想像が湧いたなら、投げずにはいられない
球を自在に操れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、ドリブルせずにはいられない
数字を自在に操れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、数学をせずにはいられない
水の中で自由に泳げると感じたら、そんな想像が湧いたなら、水泳をせずにはいられない
空間やビジュアルをデザインできると感じたら、そんな想像が湧いたなら、デザインせずにはいられない
社会の役割としてコミュニケーションできると感じたら、そんな想像が湧いたなら、職務として勤めずにはいられない
物語を書けると感じたら、そんな想像が湧いたなら、書かずにはいられない
身体でリズムを刻めると感じたら、そんな想像が湧いたなら、踊らずにはいられない
モノをカタチにできると感じたら、そんな想像が湧いたなら、形造らずにはいられない
服装や髪型をコーディネートできると感じたら、そんな想像が湧いたなら、様々なスタイルを楽しまずにはいられない
衣服で時代の流れを楽しめると感じたら、そんな想像がわいたなら、ファッションを創らずにはいられない
自在に歌えると感じたら、そんな想像が湧いたなら、歌わずにはいられない
自在に楽器を演奏できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、演奏せずにはいられない
人に喜ばれる商いができると感じたら、そんな想像が湧いたなら、商わずにはいられない
メロディを表現できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、作曲せずにはいられない
言葉で表現できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、詩を紡がずにはいられない
何かを応援したいと感じたら、そんな想像が湧いたなら、応援せずにはいられない
誰かを治せると感じたら、そんな想像が湧いたなら、治療せずにはいられない
沢山の世界を観たいと感じたら、そんな想像が湧いたなら、旅をせずにはいられない
極められると感じたら、そんな想像が湧いたなら、ゲームに没頭せずにはいられない
動物や植物と過ごしたいと感じたら、そんな想像が湧いたなら、過ごさずにはいられない
美しい瞬間を切り取れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、撮影せずにはいられない
登頂できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、登らずにはいられない
心踊るシーンを表現できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、映像を作成せずにはいられない
システムを組み上げられると感じたら、そんな想像が湧いたなら、構築せずにはいられない
誰よりも強く 鍛えられると感じたら、そんな想像が湧いたなら、格闘技をせずにはいられない
鋭いパンチを打てるを感じたら、そんな想像が湧いたなら、ボクシングをせずにはいられない
建造できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、建築せずにはいられない
数え切れないほど先の一手が読めたなら、そんな想像が湧いたなら、将棋をせずにはいられない
元気な作物を育てられると感じたら、そんな想像が湧いたなら、栽培せずにはいられない
綺麗な絵が描けると感じらたら、そんな想像が湧いたなら、描かずにはいられない
字を書きたいと感じたら、そんな想像が湧いたなら、書道をせずにはいられない
たのしく話を展開できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、喋らずにはいられない
こどもや共に暮らしている動物に愛情を注げると感じたら、そんな想像が湧いたなら、注がずにはいられない
美味しい料理やスイーツや飲物を作れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、作らずにはいられない。
オリジナルの商品を開発できると感じたら、そんな想像が湧いたなら、開発せずにはいられない。
楽しい場を創れると感じたら、そんな想像が湧いたなら、皆と集わずにはいられない。
誰かの助けになれると感じたら、そんな想像が湧いたなら、助けにならずにはいられない。
わからなくても、いつか何かが沸き立つと、そんな期待を感じたら、探さずにはいられない。
内面から沸き立つもの。抑えられないほどの。
「 . . . せずにはいられない。」
この想像と感覚はどこで得られるかはわからない。
何かが目覚めるという予感を頼りに
自ら望んで飛び込んだ苦しい練習の果てに、求めた感覚に辿り着かないこともある。
なんの予感もない 不本意に与えられた望まぬ状況の果てに、
予期せず この感覚を得ることもある。
自らの想像が断ち切られるような絶望的な状況・環境となることで、
それまでにないロジックに思考が至り 新たな想像と感覚が生まれることもある。
黙々と積み重ねた経験に 人との出会いと 環境の変化が重なることで
この想像と感覚に至ることもある。
備わっているものを見つけられるか。
誰にもわからない。
初めから確かなものは用意されてはいない。
備わっているものを見つけても それを開花できるかどうかの約束もない。
開花した後に 備わっているものを手放さずにいられるかどうかの約束もない。
ゆえに 生きることは手探りとなる。
想像と感覚が 沸き立つ源泉を求めて探る。
「好き」という感情が 源泉にたどりつくヒントになるかもしれない。
この感情に理由はない。自身に内包されている輝きを呼び起こすための 感覚・感情・反応・思考、それらを言い換えている言葉。
「継続」という行動が 源泉にたどりつくキッカケになるかもしれない。
この行動には意志がある。様々な状況の中に晒され、耐え・貫き・変化し・保つこと により、その意志は磨かれ、やがてそれまでにない輝きを放ちはじめることがある。
想像と感覚が湧く源泉を求め 手探る。
そして、想像と感覚が湧いた後も、それを実現するために 手探る。
さらに、一度は実現・開花した能力でも、失ってしまったならば、また新たな源泉を求め 手探る。
心と体の全部で苦悩と喜びを受け止めながらさまよい、
遠回りすることや、辿り着けないかもしれないということを意に介さず手探る。
他に方法はない。
手探り、手繰り寄せる。
存分にやりきることが、 感覚と想像を確かめるための唯一の方法。
すなわち
想像と感覚が湧く源泉を求め 手探りすることは 存分に生きること。
見つけて開花させようと 直向きに手繰り寄せることも 存分に生きること。
だからこそ、
自分が存分に生きるためにも、他を妨げてはいけない。
もし自分の想像の先に、誰かの人生や 他の何かを妨げることが含まれていたなら、
それは存分に生きることから外れている。
自分だけが存分に生きられるはずはない。
他を妨げてはいけない。
直向きになれる道は 一人ではつくりようがない。
誠実に分かち合えばこそ 自らが存分に生きるための道の輪郭を際立たせることができる。
直向きさとは 自らの心に旗を掲げ それに打ち込む姿勢
誠実さとは 自分のみに執着することなく 他者を尊重する姿勢。
相対することもあるこの姿勢のバランスを保つよう心がけることで、
他者の力に助けられながら、自分だけでは 手の届かないところまで到達できる可能性が広がる。
故に、他者の助けになろうとすることもまた、自らの可能性を広げながら存分に生きること。
自分 と 自分以外の他者や何か。
"ここにある想像と感覚" と "どこかにある想像と感覚" は、
その波長をたよりに共鳴し、時に 引き寄せ合う。
存分に生きることに 意味も理由も無い。
意味や理由を求める必要が無い。
意味や理由が無いことを恐れたり不安になる必要も無い。
それが全てだから。
太陽も 自身が求める感覚と想像の果てを知ろうと知るまいと 意に介さず燃えている。
ただ直向きに燃えている。手探りながら 可能な限り 存分に燃える。尽きるまで。
どのような最後を迎えようとも、燃えたことが太陽。
宇宙の中で生命として誕生し 輝きを放ち
無数の光の中で共鳴し 無に返る。
銀河の片隅で繰り返し誕生し無に帰する。一瞬の明滅。
その目にも止まらない千差万別の僅かな明滅のひとつが一生。
一瞬だとしても 輝くことを許された ということに全てが有る。
存分に生きることは 純粋な生命の輝き。
その生命の輝き、
大きさや強さではない。
小さく弱くてもいい。
消え入りそうに弱くても、限りなく純度の高い輝きを放つことはできる。
その光の大小 強弱にかかわらず、
純度の高い輝きを見た時 感じた時、心は奪われ 心は踊り 心は満たされる。
最高峰のスポーツの一瞬にも、
果てないエナジーがこもったアートや音楽にも、
リハビリの果てに わずかに動いた感覚にも、
試行錯誤して得たインスピレーションや技術にも、
繰り返し試み続けて出会ったかすかな変化にも、
直向きさと誠実さの向こうには 純度の高い輝きがある。
壮大な瞬間も、かすかな瞬間も、同様に。
直向きで誠実であればあるほど 輝きの純度は増す。
互いに持ちうる輝きは その純度を頼りに引かれあう。
引かれあい共鳴することで これまでにない明滅が創出される。
宿していても、自分だけでは気がつくことのできなかった想像・輝きは
共鳴することにより 他者によって引き出される。
純度高く輝くこと。 純度高く共鳴すること。
純度の高さこそが人生の濃度。本質。
そして、存分であることの証。
存分であることは この上ない喜びと この上ない苦しみ に通じている。
つまり、喜びとは 存分であること。
そして、そこに辿り着こうとする過程 もしくは 存分であれなくなる状態・状況には 苦しみが生じる。
共鳴することは この上ない幸せと この上ない悲しみ に通じている。
つまり、幸せとは共鳴があること。
共鳴を感じられない もしくは 共鳴を喪失してしまう状態・状況には 悲しみが生じる。
だからこそ、
限りのある人生は 嬉しくて苦しくて 幸せで悲しいのだと思う。
そして、
喜びを尊いものと感じられたら、同じく苦しみも尊いものだと。
幸せを尊いものと感じられたら、同じく悲しみも尊いものだと。
これらは全て、
銀河の片隅にある 人の一生という明滅、
その一瞬の輝きとして許されたものだと。
輝きの大小に惑わされることなく
純度の高さにこそ目を向けよう。
純度の高さに向かって 照準があえば、
他者の評価や 物事の結果を受け入れられる。
是非を考慮し 次の一歩へと変換することができる。
誠実に判断し 直向きに見据えることができる。
他者を妨げながら放つ 大きく強い光もある。
それは目を凝らせばわかる澱んだ濁りがある。
濁った輝きは執着を現したものであり、本質にあるのは暗闇。
それは虚しさの証と言える。
どんな人間にも、どんな人生を歩んでも、全て死という 同じ結末。一人残らず結末は決定している。
その瞬間は誰もがひとり。ひとりで去る瞬間を受け入れるしかない。
今の連続を続けた中での、最後の最後の「今」が死という結末。その先は無い。
苦しくても純度の高い輝きのために人生をついやしたなら 最後の最後、この世を去る最後の「今」 その瞬間を 自身の輝きが 自らを癒す光となり満たし救ってくれるのではないかと思う。
濁った輝きにとりこまれた人生なら、最後の最後、この世を去る時に その光は虚しく自身を冷やしてしまうかもしれない。
人生の過程が全てふりかかる最後の「今」に、現世の評価と関わりのない 自分だけに知らされる本当の結末。
最後の最後、誰しも自分にだけは嘘をつくことができない。
世界を美しいと感じられるのは、
植物や動物 それらの一生ひとつひとつが 存分に生きていて
限りなく純度が高いからなのかもしれない。
純度の高い輝きを見た時 感じた時、心は奪われ 心は踊り 心は満たされる。
自然のなかで開花しようとする植物にも、
五感を研ぎ澄ましてその日を営む動物にも、
最高峰のスポーツの一瞬にも、
果てないエナジーがこもったアートや音楽にも、
リハビリの果てに わずかに動いた感覚にも、
試行錯誤して得たインスピレーションや技術にも、
繰り返し試み続けて出会ったかすかな変化にも、
直向きさと誠実さの向こうには 純度の高い輝きがある。
壮大な瞬間も、かすかな瞬間も、同様に。
これらはただの言葉。
弟は自分の人生をどう感じただろうか。
最後が病院の片隅のベッドであっても
存分であることはできる。
小さく弱くても 純度の高い光は確かにある。
共鳴することもできる。
短い一生だったけど純度の高い輝きが弟にはあったと思う。
笑顔とは人間だけがもっている輝き。
なぜ美しいのか。
それは純粋さに起因する。
いつまでも色褪せることのないほどの 純粋で眩しい笑顔がある。
心から楽しめる人だけになせる笑顔。
その瞬間、我執が無く、その場・相手・その時を心から受け入れて楽しむことのできる人。
そんな人こそが 良い笑顔をする。
弟の笑顔は 輝かしい笑顔だった。
生まれ持った純粋なエネルギーを 感性で保ち 輝かせる力を持っていた。
また そのように生きることが 弟の存分であったと思う。
小さな頃からそうだった。
自分には真似のできない純粋な輝きがあったと思う。
自分にとって眩しい存在であり、心の拠り所にしていたと思う。
亡くなる最後の最後まで 自分にとっては眩しい純粋な輝きがあったと思う。どんなに弱っても弟らしい光があった。
生きるための望みを見つけたいと願う わずかだけど純度の高い光を宿した目をしていたと思う。
その眼差しと 最後に見たかすかな笑顔が 鮮明に記憶に焼き付いている。
生きて 笑える時が来ると信じて、信じようとして、ただその純粋な思いを握りしめて
その命が果てるまで燃やし尽くしたんだ思う。
永遠に明けることなく終わる夜があるということを知った。
皆で知恵と力を振り絞り つなぎとめようとした。
それでも、全てにおいて取り返しがつかないことは 容赦無く起こり得た。
絶望、過酷で残酷な最後だった。
ただ、その最後の時を
すべて助け、あたたかく満たすほどの純粋な輝きが
それまでの弟の人生にあったはずだと思う。思いたい。
弟自身が 燃やした自分自身の純粋な輝きが、自身の救いの光となり
最後の時の中にある弟の心を救ってくれていたはずだと、
まわりからは 過酷で残酷に見えたとしても、
その内側では救いの光に包まれていたはずだと。
命が果てた後、
まるで それまでの闘病が嘘だったかのような
笑顔のような穏やかな表情だった。
弟のその最後の表情。 存分に生きたことを教えてくれる、それを託した表情だったのだと信じたい。
言葉にすることができなかった メッセージや感謝を託した表情だっとのだと信じたい。
最後の弟の表情を いつか信じられるようになりたい。
最後がどのような最後だったとしても、それまでに生きた輝きは 弟の存分だったのだと。
弟は存分に生きたんだと、
存分であろうとしていたんだと、
そうであってほしいと、
ただ そう信じたいがために
言葉を追いかけているふしがある。
. . .
何もできなくて。助けられなくて。ごめんね。
弟でいてくれて 有り難う。
分かち合っていることに気づけないほど自然な共鳴。無意識の領域でのシンクロ。
この世にはもう有り得ない。無くなってしまった世界。
鮮烈な喪失感はそこかしこに散らばっていて 不意におそわれる。
そして、そこに共鳴があったこと、分かち合えていたことの 有り難さに
初めてのような感覚で気がつき 痛感する。
何気なくかわした会話。何気なく笑いあったこと。何気なく喧嘩もした。
何気なく。
何気なく交わしたやりとり。 何気ないからこそ、当たり前のように また明日も . . . そう思っていた。
もう何気なく声をかけることは無い。できない。永遠に。
いい曲みつけたよ。あれ面白かったな。あの店美味しかったよ。
ふと心に浮かぶ言葉の行き場は無くなった。
小さなことだと思っていた。何気ないひとつひとつ。
それらを失った時、想像もしていなかったほど
果ての見えない悲しみがやってきた。
些細で何気ないと思っていたものは、掛け替えのない尊いものだった。
幸せとは そのようなものだった。
何気なく 掛け替えの無いもの。
なぜ "美味しい" と感じた時、幸せなのか。
それは味覚を通じて それを美味しいと感じる 共鳴があるから。
どこか商品開発部の人との共鳴かもしれない。シェフやパティシエとの共鳴かもしれない。
目の前でつくってくれている人との共鳴かもしれない。
もしくは、その状況・シチュエーションそのものに感じている共鳴かもしれない。
果ては、100年前にレシピをつくった 今はもういない人との共鳴かもしれない。
共鳴とは、時間や距離も関係なく得られる感覚。
言葉にせずとも 味覚でたしかに "美味しい" と感じたら、
その向こうには それを作ってくれた 同じものを美味しいと感じている人がいる、もしくは いた、
という 共鳴がある。
この何気無い共鳴は、儚く 掛け替えのないもの。
音楽でも そのメロディやリズムや歌声に共鳴がある。
スポーツでも アートでも、笑いでも、映画でも、本でも。
すこしの会話の中にも、ふとしたそぶりにも。
自然にふれたり 自然の中での生活にも。
動物とのふれあいや 動物との生活にも。
仲間や 友達、ライバルとの関係性にも。
感性や経験、感覚のはざまに、関係性に、
身体の反応に、心の動きに、
この世のあらゆるところに共鳴は存在している。
そして その共鳴に気がつけるかどうかは また別の話。
こちらの意図を介して 故意に作り出すことはできない。
求めすぎれば不協和音となり 遠ざかる。
そして、出会ったとしても手放さずにいることもできない。
稀であるのに 何気なく、そして、儚くて 掛け替えがない。
何気なく心の中で起こること。
そして ときには 人生を大きく左右するほどの影響もある。
つまり、大げさに言えば
共鳴とは 自分がこの世に在るということを 確かなものだと感じさせてくれるもの。
幸せとは そのようなものだった。
たくさん在った。 共鳴。幸せ。
確かにあった 共鳴。
ただ、気がつけずに 見過ごしていた共鳴がたくさんあったのだと。
共鳴とは。幸せとは。
探し求めることにとらわれすぎると
我執により 遠ざかり 不協和音を生み出してしまう。
共鳴とは。幸せとは。
そこに在ることに 気がつくことができるかどうか。
例えば自分の体内のことでも、
無意識に心臓は動き、無意識に呼吸をしている。
自分の中で分かち合っていることに気づけないほど自然な共鳴。無意識の領域でのシンクロ。
心の不純物を除き、そのシンクロを心で感じられたなら、気がつくことができたなら、
朝起きて、心臓が動き呼吸をしていることに、その自然の循環がもたらされていることに 共鳴を 幸せを 感じることができるだろう。
簡単にいってしまえば 風邪や病気などで普段の動きができなくなった時に それまであった 当たり前という名の共鳴と幸せに気がつけるように。
普段の生活で 心の不純物を覗くことは簡単ではないが 全ては 心の有り様。
あれもこれも、なぜここにない、なぜこうならない、
探し求めても共鳴はなかなか得られない。
探しまわり 求め過ぎれば 不協和音さえ生み出してしまう。
共鳴とは 自分本意のみでは有り得ない。
主体はあくまで自分であるものの、他の誰か、まわり、環境、状況、状態の中で発生するのが共鳴。
だからこそ、
他者に 対象に 寄り添うような姿勢を心がけることが
共鳴に 幸せに 気がつくための 心のあり様なのかもしれない。
探し求めるばかりでは遠ざかる。気がつくことができるかどうか。
すでに そこに在り、そして 今ある光は二度と来ない。
気がつくことができるかどうか。
共鳴とは。幸せとは。
気がつくことができるかどうかにかかっている。
稀であるのに 何気なく、そして、儚くて 掛け替えがない。
共鳴とは 自分がこの世に在るということを 確かなものだと感じさせてくれるもの。
幸せとは そのようなものだった。
あの日、あの時、何気なく話し笑いあった日が、
こんなにも 大切で尊く、もう戻ることのできない刹那の共鳴であったことは
その時に気がつけずにいた。
このうえなく幸せな一瞬だった。
そんな一瞬がたくさんある。
これほどまでとは、、、気がつけずにいた。
共鳴 = 幸せ
悲しみとは、その喪失。
故に、
悲しみの大きさは その前にもらっていた幸せの大きさと 同等。
果てることのない悲しみに出会ったなら、
それは、その前にもらっていた 幸せが 果てなき大きさだったことを教えてくれるもの。
ごめんね。さよなら。
有り難う。心から。
. . .
心から有難いと思えたこと。
存在に 行為に 関係に モノに 状況に 時間に 出来事に 経験に
触れた感触に 見た景色・風景に 聞いた音に . . . 様々にある。
心から有難いと思えたこと。
それは、そのまま、その人の人生を現している。
この世に生を受ける。
そのこと自体 貴重で得難い現象。
ここに生が有るということ。
それ自体が有り得ないことに近い、有り難き現象。
この世に有ること自体が 有り難きことでありながら、
それを 日々感じ続けられるわけではない。
その日々の中で、
心から有り難い と思えるもの。こと。
存在に 行為に 関係に モノに 状況に 時間に 出来事に 経験に
触れた感触に 見た景色・風景に 聞いた音に . . . 様々に。
たとえ その時は苦い・悔しい経験や存在でも
その後に成した道のりによっては
後に 有難いと思える もの・ことに変移 または 昇華することもある。
この世に有り、生を送る中で
心から有り難きことと実感できたこと。。。
それは そのまま 人の生の実感、その最たるもの。
だからこそ、
それを 人生と言わずにはいられない。
弟の存在は また 自分自身の人生そのものでもあった。
そして もし 最後の弟の表情が 皆への "有り難う" を託したものだったとしたら、
自分自身もまた 弟の人生そのものを成す存在のひとつだったのかもしれない。
逝ってしまい 取り返しがつかなくなって
時が経てば経つほどに そのことを思い知らされている。
有難いと思えた 特別なこと 些細なこと。
それらは 過ぎ去り、後になればなるほど、
さらに色濃くなり 痛感する。
さよならの後にこそ、
まるで人生がその濃度を増すように
深々と色濃くなっていく。
何気ない笑顔を何気なく過ごしていたかもしれない。さよならの後に、その尊さを痛感している。
名残惜しいさよならの時、有り難うという気持ちがある。
無意識に その生あることへの有り難さを感じているのかもしれない。
さよなら。 有り難う。
純度高く 存分であろうとできたなら、
純度高く 共鳴を感じることができたなら、
心から嬉しく。
心から苦しく。
心からの幸せ。
心からの悲しみ。
これらにより、
命の輝きは圧倒的に儚く揺らぐ。
夜空にある星が、輝き、揺らぎ明滅しているのは、命の輝きを見せてくれているからなのだと。
輝き、揺らいでいる、存分に。消えるまで。
純度の高い輝きの中、純粋なひとつの命という現象として、唯一無二の命の輝きとして 存分に揺らぐことができななら、
そうして圧倒的な儚さを享受できたなら。
最後の最後、この世と別れる今際に
嬉しさ 苦しさ 幸せ 悲み、そのすべてを、心から 尊く有難いものとして抱きしめることができるかもしれない。
心から有難いと思えたこと
それこそが、そのまま、その人の人生